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本当のことを伝えない日本の新聞

最近読んだ本で面白かったのがこれである。著者は、ニューヨーク・タイムズ紙東京支局長のマーティン・ファクラー氏である。あまりにもうますぎる日本語文に、「誰かが手を入れたのだろう」と思ったが、そのことは、本文にはどこにも触れていない。一番あり得るのが英語で書いたのを誰かが日本文に翻訳した可能性である。


本当のことを伝えない日本の新聞_c0018010_176810.jpg最後にひとこと、「語りおこし」だと書いてある。これはだれか日本人のアンカーマンがいて、支局長から話を聞き、関連の材料を読んだ、あるいは調べてが執筆したということであろう。であれば、その人の名前を入れるべきだろう。出版社の編集者かもしれない。

見出しがここまで厳しい本を書くのであれば、正確さを優先すべきだ。「隗より始めよ」である。どこかでそれを説明しなければならない。その辺の一般紙、放送記者が書く日本文よりうますぎるのである。外国人記者であれば、それはあり得ない。そんなことを冒頭感じた。

中味は、よくある記者クラブ制度をベースにした日本のメディア批判である。ただし、違うのは、現在日本に在住し、日本の制度の弊害を外国人記者の立場から知り尽くした意見であるということ。読んでみると、日夜最大限の努力をしているつもりであろう日本の記者が結局は、権力の手先になっているというのはとても説得力がある。

題材を東日本大震災に据えて、しっかり分析しているのがいい。確かにそうだ。日本人の記者らは、当局の発表する会見をただただ報道するだけで、それを検証し、自分で調査し、読者のためになる情報を提供していない。権力を監視するべきメディアが、権力の発表をうのみにして、彼らを守る官僚制度の番犬になっていると断じている。

この支局長は、実は震災の2日後、車で爆発した福島原発に乗り込んだことが知られている。日本の記者は、放射能の危険を案じる本社の指令のままに撤退した。どちらがいいかは考えてみればわかるだろう。あるTBSのデスクは、マスコミ学会で、爆発現場に入らなかったことについて、会社ジャーナリズムを守るためにとても大事な判断だとの見解を表明していた。そうかね。使命感があれば自然に出る行動だろう。

興味深いのは、一番最後の日本のメディア分析である。猛烈な反省を迫りながらも、日本のメディアの今後を切り開く可能性を語っている。地方紙が日本は優れているというのである。河北新報、神戸新聞、愛媛新聞などと自分の足で取材し、読者のためになる情報を提供しているのは、地方紙だと力説。特に、震災以降の報道が光るのは、東京新聞を挙げている。

私も同感である。ネット時代に入り、我々はウェブサイトで地方紙にアクセスできる。地方紙はもっと世界に打って出るべきとの提言は説得力がある。
by kogaj | 2012-09-16 16:56 | 書評

加齢で難聴になった高齢者が手話に挑戦する日々をリポートします

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